平成17年8月9月 戦後60年に関するアンケート



 私は昭和50年生まれです。前線死線を戦い、敵機の機銃や焼夷弾の炎に囲まれ逃げ回り、親兄弟子供・親戚知人の無事を想う、そんな日常を知らない男です。先輩として伝えるべき事、筆を取っていただけましたら、これからの日常、良くなる気が致します。戦中戦後の家庭生活、生きる中の希望、絶望、愛、敵に想う事など、未来これからへのメッセージを、想います。どんな形の玉稿を頂きましても、身は震える思いです。どうぞよろしくお願い致します。



最近、テレビ等で平和の尊さを忘れたような発言が目につきます。政治や外交レベルの戦争と、実際の私たちが経験するであろうことは、きっと全然ちがうものでありましょう。そうした意味でも先人の戦争の体験をぜひ語っていただきたく耳を傾けたく思います。

私の父は海軍の少年兵として、乗った船が轟沈され無人島に流れつき生き残った20人のうちの1人。母は一夜にして10万人亡くなった本所の空襲で顔、両手、両足に火傷を負い、防災ずきんを顔の皮フから外したり、長ぐつを貼りついた皮フからナイフではがしたりと、それでもどうにか助かった1人です。少年の父は、配給の日本酒を、大人の兵のところに行き、羊かんと換えてもらい、ライフジャケットに詰め込み、海に放りだされたときに食べて、それで生き残ったと笑います。母は今だに12才の心のまま、時々見る夢でお母さーんと、泣きそうです。

私はS29.7生まれですが、まだ小学校の頃はつぎあてのずぼんをはいて遊びまわっていました。S20年3月10日早朝、東京の空が赤くなりサイレンがなりひびいた。当時10才、江戸川を渡った市川市菅野に住んでいた。庭の防空壕のスキ間から見た空は赤くすさまじかった。翌朝、市川橋をゾロゾロと焼け出された人達が東京方面から渡難してきている。皆真暗な顔と着物でわづかな着物をもち、子供の手を引いて歩いている。その時自分はどうしてあげたか、この人達に!!何の手助けもしなかった。恐くてできなかった。今70才、満ち足りたこの時代に若い人達は、自分勝手な考えと振る舞いをして浮かれている。日本は今後どうなってゆくのか。

私は昭和27年生まれの戦争を知らない世代です。それでも戦争の恐ろしさを知り、何が何でも絶体、戦争を起こしてはならない、いつまでも今の幸せを壊してはならない、と思っています。これからも戦争をしないためには論理道徳教育を徹底して行うこと(受験用の教育は不要)が必要と思います。

満6才、妹4才父戦死。母の実家、一年間そかい生活。食料難。結構大変でした。母親はもっと大変でした。戦争はいけません。

私は、12年生まれ69才です。9才頃ですので特に学校から1km位連日警戒警報ごとかけ足で帰った事を覚えてる。また、家のすぐ上をアメリカ軍のショイだんが音を立てて近くに落ち防空ごうを命からがら、逃げたのを覚えている。父は満鉄で中国と母親の実家の物置改造してお世話になって育った。特に私より母親は想像絶する苦労して子供を育てたと思います。現在では考えられない事です。幸せなのか?幸せでないのか?

当時浅草にいて、戦火がすごく一時、母の実家新潟へ行きましたが、又、帰り、3回も家を焼け出され、これはだめとの事で、父が北海道の開拓者として行こうと一家で行った。終戦2週間前の事である。それからは、衣食住寒さと並大抵な苦労では、なかった。私が6才の時でした。そして19才で東京へ来て又、苦労しましたが、現在は食べるにはこまりません。

私も、直接体験しているわけではないが、両親から聞いた話では、戦争中は、食べる物もなく、空襲から逃げ回った話を聞いたことがある。ただ、話の中で出て来るのは、二度と戦争は体験したくないということでした。

私は戦後生まれで直接の経験はありませんが、食料事情の悪い時代に子供の時はありましたので、親は大変な思いをしたと聞きます。貧乏を忘れず、物を大切にする精神、庶民の暮らしを守ることが大切だと思っております。

私は昭和26年生まれ。したがって戦後生まれで北海道で少し落ち着いた時期のせいか、生活苦はそれ程感じていなかった。ただ小学校時代はやはり貧しい子供がいたように思う。最近政治経済を見るに付け各国との意見の対立があるように思え何かきっかけがあると、戦争にならないとも限らない。我々の時代の人間も、戦争だけはしてはいけないと努力を払わなければならない。

敗戦の翌月上野につき西郷さんの銅像付近から浅草両国見渡す限り焼け野原が広がり焼けたビルが点在していた。当時国民学校5年生10才学童疎開で山形から帰京し時のこと幸い江戸川区の田園地帯に在った家は戦火を免れてはいたが家には戦火から命からがら逃れてきた城東区(江東区)の母子老人や病人を連れた数家で立錐の余地もなかった母が家に有った全部のふとん衣類食料を提供して家族はがまんを強いられた。帰京して半年位たって友達と上野の山に行き、3人で弁当を食べていた後ろから急に何体もの汚れた小さな手が延びた。
それは戦火で親を奪われ家の失った3才〜14才くらいの男女児だ。あっという間に食料荷物を奪われた。今、孫を連れて上野の山に立つとき戦争の悲惨さと平和の有難さを強く感じる。前田さんの上野の山エッセイを読んで。

父は私は4才位の頃母と私を残して満州鉄道に行った。敗戦の2年前頃現地に母子で渡った私達を残して父は現地広召され仏領インドシナ(ベトナム)に行かされた。母と私は戦況が激しくなり帰国し父の故郷に帰った。その後父は戦死帰ってきたのは空の小さな箱だけだった。強い母と周囲のおかげで成長した。私の思いを子供達や孫にはさせたくないと強く思い大切に生きている。

「日暮里」は楽しく読ませて貰いました。今後も継続して頂きたい。

S14年生まれ、戦争の記憶は真赤な焼い弾が落ちてきたのだけは、覚えています。小学校に入学し、担任の先生、教室の感じは、今でも覚えていますが、次の日から東京にいては危ないと云うことで、家族のうち、女(母、姉、私)だけは母の実家に疎開し、3年生の頃に東京に帰りました。疎開人はよくいじめられると申し、聞いておりましたが、そのような事もなく、幸せな生活でした。

終戦から今年は60年目ですが、当時、私は3才だったので、記憶は薄いです。只、今でも、さつまいも、かぼちゃ混ぜご飯は好きでない。(食べ過ぎた後遺症でしょうか?)空襲警報〜防空頭巾をかぶって防空壕に入ったのは、よく覚えております。

私は越乃寒梅の大ファンです。生命の名酒として毎日飲んでます。終戦の時は私は小学校6年生でした。戦争は絶対してはなりません。今、生きているからこそ、すばらしい越乃寒梅が飲める幸せをそして健康である事、前田真司氏の健康でご多幸をお祈り申し上げます。

戦争は体験してませんが、親よりよく話を聞き、二度とおこしてはいけないと思う。

私も戦争は体験していません。ただ、戦争が無い世界になればなーとひたすら思います。意味あるのか、無意味なのか、どう思いますか?!店主様は?!

小生町屋(昭和23年)生まれです。、ふと、父親の言葉を思い出しましたので、雑記します。「昭和18年、40才おを超えての2度目の出征とのことから「負け戦」の感があり、生きて帰れぬと思った。ガダルカナルへ援軍すべく多くの輸送船は向かったが米潜水艦の餌食となり、父親の部隊は止むを得ずインドネシア領セレベス島メナドに駐留したそうです。米軍の飛び石作戦で当地での交戦はなく終戦を経て内地へ昭和21年に帰還した」そうです。人間の生死は天運にまかされている感を得ました。

終戦の年が国民学校4年生でした。昨日までの「鬼畜米芙」から「アメリカ人とは仲よくしましょう」への変化にもすぐついてゆきましたが、食料の無い時代の怖さは生涯忘れることはないでしょう。今の日本の豊かさは一生懸命国民が働いた結果でその時代はいじめもフリーターもニートもありませんでした。50〜100年後にかつて日本という国がありましたと云われないように考えましょう!

昭和18年4月群馬県高崎市榛名航空工業に入社、社員20000人、同時高崎工業高校入学、旧中学、昭和20年3月10日高崎駅にてアメリカ艦積機に16ミリ機関砲に適機銃掃射を受け駅構内のそでに隠れ一命を取りとめる。其の夜東京大空襲80kかなたより東京の空は真赤にもえておりました。現在荒川にて零細企業の社長として頑張っております。

戦後S24年生まれの小生の思い出として残っているのは物資−食料などが今のように潤沢でなく、多くの人がつましい生活を送っていただろうということです。その後

終戦の時小学生2年生でした、四月に集団で福島県の山に集団でそかいしました。父、母とわかれ、それはさびしかったです。食べる物も少なく、山へ食物を取りに行き、食べる物を取りに毎日行きました。勉強などできませんでした。1年半に渡り生活してきました。戦争はいやです。平和が大切であること、より。

いつもお世話になっております。アンケートには関係ありませんが、先日、予約以外でも販売していただけるというお話をうかがって電話をさせて頂きましたところ、売って下さるというので、1時間以内にお店に行きましたら、あっさり「ありません」とことわられてしまいました。電話をしたときに予約をしなかったのがいけなかったのかもしれませんが、お売りしていただけないのでしたら、電話をしたときにことわられた方がよかったです。仕事中にぬけて行きましたのに、ムダ足になりました。

疎開先で終戦前夜に空襲に会い、焼夷弾の降る中を逃げました。地獄絵の中を生きて来られたことを今は嘘の様です。その後の混乱した社会の中で、いろいろな経験をしてきまた。現代の青少年の恵まれた経済の中で生きている者には想像もつかないでしょう。しかし、困難な中を生き抜いてきたものにとって過去を返り見るだけでなく、未来への希望を持ちたいと思いますか。現在の政治がそれを明らかにしてくれるとは思いません。

私も戦後生まれの人間ですが、父が満州へ出兵、時折当時の話をしてくれます。今日報道されている南京大虐殺や慰安婦問題など必ずしも正しく報道されていない事を聞くことが出来ます。今年も8月15日靖国神社へ出掛けました。沢山の人が英霊に誠を捧げ、平和への願いを新たにしておりました。60年たったことで当時の出来事が改めて明らかにされておりますが、未来に向かってすべきことは過去を振り返り二度と過ちを起こすことなく、日本が安泰であることの為に出来ることを皆で考えることが大切なのでないでしょうか。

戦後生まれですが、食事はサツマイモ等を食べていたことを覚えています。白米を食べられたことは少なかったと思います。

S25年生まれで、メッセージを送れません。55才。

いつもお世話様になっております。「日暮里」おもしろく読みました。「谷根干」はテレビで紹介してましたが、いつの日か時間を取って歩いてみたいと思いました。まだ〜お若い方だと思いますがいろいろな事に取り組まれている様子に感心致しました。私はお酒を頂きに伺い始めたのは15年位前からだと思います。最初の頃は日暮里に駅前をぐる〜回ってやっとお店を探した覚えがおります。いつも忙しさに負け良い文が書けず申し訳ありません。

墨田の下町育ち6才でした。3月10日の大空襲・・・B29が爆弾を落としつづけ、空は真赤、火の粉の降る中、川へ川へと逃げ怖かった記憶・・・6歳の私には戦争の意味が分かりませんでした。親に手をひかれ、夢中で逃げました。8月の天皇陛下の放送で皆泣いてもう、皆で死ぬんだと云われ・・・今生きているのが不思議です。戦争って本当に怖いです。平和が一番・・・これからもおいしいお酒を飲ませて下さい。生きてるかぎり・・・

昭和28年生まれの私には、何の記憶もありませんが、60年を思い放送された画像を見たり、記念碑など見学に行くと、二度と起きてはならないと思っています。

無責任な為政者を選ぶと、60年前のような体験をしなければなりません。そのような目に遭わないようにするためにも選挙は真剣に考えています。

前田さんはお若いのに考えが立派ですね。私も世界中の人々が仲良く助け合い平和な幸福な生活を送れますように心から願っております。

私は昭和19年生まれです。栃木県にソカイをして幼少を過ごしました。親達の苦労も大変であったろうと思います。今も世界のあちこちで戦争やら様々な悲劇が起こって居りますが一日も早く平和がおとずれて皆が幸福に暮せる世の中になってほしいものです。“世界人類が平和でありますように”祈っております

私は昭和12年生、20年8月15日は学童疎開で群馬県中之条町で迎えました。天皇の放送はよく聞えませんでした。先生の一人がこれからは「平和」だと云ったのは覚えておりましたが、「昭和」から年号が変わるんだとしか理解できませんでした。同年代の友達は皆仕事をやって元気居ります。

私は昭和20年7月生まれです。終戦が後一日遅れていたら今日の私は居なかったかも・・・!終戦の8月15日に私の住んでいた町が攻撃予定だったからです。平和は有難いのですが、現在の日本の国はバランス感覚が無いのではと心配しています。堂々と内外に日本を示して欲しいと思っています。

私は昭和16年生まれ。池袋と目白の間雑司ヶ谷6丁目に住んでいました、S.16〜S.40まで住んだ町は現在西池袋と町名変更がなされました。父の里武蔵五日市戸倉村に疎開をしました(戸倉村には野崎酒造喜正というお酒があります)3才6ヶ月からの戦争の記憶ははっきり持ってます。やはりB29が戸倉村の空にとびました。幼いながら小学校の体操用具置場に身をひそめました。人が人でなくなる戦争は2度と起こしてはならないと思います。

空襲の大火に歯の根も合わず歯をカチカチいわせ止めることが出来ませんでした。八才でした。子供を恐怖、人間の根本的恐怖(こういう時程、人は虚ろな眼をしています)におとしいれるものを絶対に許せません。(特に戦争)

人間は、欲求として安定を願うのは必定のこと。しかし、特に日本の人々は、安定(安全)を得るための努力が十分とは言えません。即ち危機に対する意識が少なく、認識も少ないと思います。戦争のみならず、災害などに対して、投資と実行を協働して皆が平和な社会づくりが高い文化の証と言えるのでは。

現在も世界のどこかで、内戦やテロという名分の戦争が行われています。犠牲になる人々は、戦争を望んでいたのでしょうか、誰一人として望む人はいないと思いますが、聖戦と語り、自らを武器となり殉教する人も居る。政治や宗教とは何なのだろうか、特定の組織や団体の利益を尊重し、全て排他的な思想と行動・・・幸福とは?

戦争反対のみです!イラク、他早く平和になる事を心より祈っております。

私が昨今思うこと。年寄も古くて古いことばかりを強調せず、若い者も新しくて新しいことばかり強調することなく、古いことの中から新しい芽生えこそが重要なことでその本物をつくっていきたい。邦彦

戦争は弱い者を不幸にする。世界の人々が一つになり平和の世界に。

終戦当時、3才の私には、これといった思い出は残っていませんが、国の為と言われながら、一家の主や大切な息子孫を戦場にかり出された一般人のかなしみは、痛い程思われ、二度とこの平和を失いたくないと思います。60年の長い平和を感謝しています。

埼玉の寄井の先折原村小学校で終戦を迎えました。学校には陸軍の兵隊さんが常駐していて勉強等をした記憶がありません。普段はイモ食で、桑の実をよく食べていました。疎開先から名古屋に帰ると市内は全域で何もなく駅裏にバラックが出来ていて、しばらくして街角に傷痍軍人が白い服を着て、たくさん居た事を思い出します。足には、自転車のタイヤで作った、ゴムゾウリを履いていました。何もなくて、はずかしいと云う、人間の持つ高度な意識さえ皆んな忘れていました。今は今で、なさけない世の中ですね!!

私は昭和11年生まれです。東京で二度も空襲にあい無数の焼夷弾で家を焼失しました。それから茨木県へ疎開して、終戦は小学校三年生でした。苦しみの戦争は嫌です。後年、ベトナム戦争も仕事の関係で少し体験しました。ただ、言えることは絶体に戦争だけはしてはいけないということです。

私は昭和17年海軍兵学校第74期生として入校、昭和20年3月、海軍少尉に任官、水上艦隊の一員として、太平洋上で活躍したが、終戦、苦しい戦中、戦后を経験した。語れば、永い話題を持っているが、亡き戦友を偲び、平和を祈っている処である。

私は戦争を知りませんでも父からは良く聞いています。だから現在自分がどれだけ幸せにくらしているかわかります。でも今の子供達のいじめ自殺など聞くと戦争や戦後の食べられない事を考えると今の子供は今の時代どんなにみじめな生活をしていると思います。

先日はおつかれ様でした。次回はがんばって下さいませ。

父親から聞いた話ですが、3月10日の東京大空襲で隅田川のほとりには焼け焦げた死体がありました。その人の口の中から金歯を抜いていた人がいるそうです。戦争は人間を換えてしまうものだと思いました。

私も戦争を知らない世代ですが、父から聞かされていた「満州出兵」の話は、とても辛いものでした。いつも笑顔の優しい父に、そのような辛い過去があったのかと思うだけで悲しくなります。避けてはいけないことでしょうが、出来れば触れたくない話題ですね。

ごめんなさいね。私は昭和27年生まれ。アンケートの結果を楽しみにしています・・・

私も小学2年生の時終戦を迎え、親も家も、色々な者を無くしましたが、当時は子供も大人も正しい戦争だと思って居たと思います。何年何十年も掛けて国体を作り、其の様な教育を受けて育った人ばかりで、国の為に命を投げ出すことが正しい事だと思っていました。一人一人が賢くなり、自国も他国も其の様にならない様に働き掛けるべきです。

戦中戦後父は、酒好きな人でした。食べるに大変な時でしたから私達家族が口に入れるものに無中でお正月にでもお酒を口に入れる事もなく・・・・今この様にしてよい酒が手に入る昨今です。もう戦争はこりごりです。

自分の道は人にはわからないので夢と希望常に叶うように努力する事。

私が4歳の頃、空襲警報が鳴るたびに防空壕に飛び込んで母親にしがみついていました。ある晩、「東京が燃えている」と興奮して叫んでいる姉に抱かれて夜空が明るくなっているのを松戸から眺めていました。敗戦し、進駐軍が昼間でもライトをつけた軍用車で町を走り抜けるのを見ながら「轢かれても文句は言えないのだぞ」と兄達に言われた幼い記憶に今も残っています。川崎の親類も空襲で焼け出され、にわか作りのバラックに住んでいました。川崎までの往復、電車の窓から見る夜の東京は銀座あたりはいくつかのネオンがあったように思いますが、明かりはちらりほらりでした。丸い大きなカサに覆われた電車内の電灯も二つくらいしか点いておらず車内も東京の町も薄暗かった記憶ばかりです。食料不足でオジヤ、すいとん、麦飯が食べられるのはありがたいことで、白米飯が食べられるようになったのはそれから10年も経ってからでした。

昭和20年3月10日、6才だった私は東京に居ました。あの日の恐ろしさは生涯忘れないでしょう。戦争は絶体いやです。でも日本の国は守ってほしいです、有事の際は。若い人達の考えていること、知りたいと思っています。日本のこれからについて。

大戦中小学生将来予科練に入るため鉄棒や回転の練習の毎日でした

「焼き印イリ」に記載ありました両親の事ですが、私の父親93才、母親81才で母親は脳こうそくを患い入院中です。父はまだ元気で一人暮らしをしていますが、年令を考えるといつまでも今のままというわけにはいかないと思います。このため真司様の苦労も良く理解できます。しかしまだ店で指導し恐ってくれる人がいるということを感謝します。発展するよう努力してお父さんを喜ばせて下さい。

私は昭和25年の戦後生まれですが子供の頃はまだ街中に進駐軍がいて、外国の兵隊さんをよく見かけました。時々大通りをジープを先頭に軍用車車両が何台も通って行くのを見てよく手をふったものです。皇居前には都電が走っており、都内はバスより都電が多くありました。

純粋戦無派と自称している昭和21年生まれの男です。反戦運動盛んな頃学生生活を送りました。従って平和の意味を問いつづけております。戦争体験者の話も聞き、決して戦争を起こしてはならないと思っております。現実と理想、其の相点に揺れる。しかし理想を目指す。もう一言、日本文化をしっかり守っていく。日本の悲劇は、多様な組み合わせを許さないきめつけ。

現在の我国の平和と繁栄は尊い命を犠牲にされた靖国神社に眠る英霊のお陰である事を決して忘れてはならないと思います。S40生。人生は誠に苦難の多い旅である。勇気を持って立ち向かえばこんなすばらしい旅はない

父の復員前、母と2人で食べた水団の味、あんな物でも美味だった時代

(平和の尊さを詠んだ愚作の一句。)敵機なき花火のための夜空かな (相川)

S35年生まれの私にとっても、戦争は昔の話になっておりますが・・・。

私は戦争中は墨田区に住んでいました。日本兵が朝鮮の人達をいぢめたと云いますが私達は皆んな仲良く遊んで居りました。

これからは人間一人一人の実力が問われる時代になると思いますのでがんばって力をつけたいと思います。

終戦時13才、小学校5年の時から海軍兵学校を目指し、必死に心身を鍛えていました。一日にして天地がひっくりかえり、目標を失った私は流れるように人生を送り73才の猿齢を重ねてきました。60年間全く進歩がありません。一体どうしたことでしょうか?

私はS13年生まれ、S20年小学一年生です。田舎育ち(信州伴那谷)で空襲はなかったが、ごはんが名ばかりで大根メシ、イモメシでした。オカズは漬物が主でたまに食べる「サンマ」は1/2がごちそうでした。そのころから「ガマン」することを学びました。今の子供に「ガマン」を教えたいものです

前田真司様に一票入れました。今後頑張って下さいネ!!

S18年生まれ。台東区(下谷区)下町で終戦は2才。従って何ら覚えはないものの、食べ物がない。ひもじい思い、よく停電し、暗い中、親子が身を寄せ合い、くる日もくる日もスイトンの汁をすすったこと、上野の地下道に真っ黒な泥で汚れた様な多数の子供が折り重なって生きていたこと、等、断片的に覚えている。よく命があったものだし、どこの家も子供がたくさんいて大変な苦労をした事だろう。それにひきかえ現代は腰の抜けた様な人が多すぎます。

尾久の操車場に焼い弾が落とされ、真っ赤だった

私は昭和13年生まれですが昭和20年8月15日のことはせんめいにおぼえています。この日をそかい先で迎えましたが、この日は朝からもうれつに暑い日でした。放送が始まる頃には多くの人が一台のラジオを囲んで聞き入っていました。この放送は大東亜戦争が終わった事でした。今放送後、先輩に連れられてあゆで有名な中川の支流に泳ぎの練習に行ったのです。あれから60年日本は食料その他豊になったように感じますが実態は、食糧の自給率は40%を切っている。もしあのような大戦が起きたらひもじい想いを再度経験するのはごめんです。少子化が進む中、前田酒店が扱っているおいしい日本酒を味わうためにも、日本農学を見直す努力をしたいものです。



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